「子孫を残せない自分に、いったい何の価値があるんだろう」
僕がこのテーマと向き合うようになったのは、中学3年生の頃だったかな。
がんばって女の子と付き合ってみたけど、燃え上がるものがまったく感じられず、
いよいよ男の子にしか興味がないということが分かり始めてきた頃だね。
その頃から「ひとり会議」(←詳しくはこちらの記事参照)をして、
ゲイである僕は、何のために生まれ、何のために生きていくのかということを、
ずーーーっと考えてきました。
そこでね、
このテーマは複雑でとても大きなテーマなので、
大きく2つに分けて考えてみたいと思います。
1. ゲイとしての僕の人生は、社会にとってどういう意味があるのか 2. ゲイとしての僕の人生は、自分にとってどういう意味があるのか |
という2点です。
この点を混同してしまうと、
僕は必ず社会のために人生を捧げなくてはいけないという前提になってしまうんですね。
子どもの頃からずっと考えているうちに、
社会のために人生をささげない人だってたくさんいるよなーと思うようになりました。
まぁ、自分の人生のテーマが、
そのまま社会の大きな役に立つというケースもあるんだけど、
(例えば乙武洋匡さんのように、自分の人生のテーマがそのまま社会貢献に直結する場合もあるけどね。)
どちらかというとそれは稀なケースだと思うので、
僕は切り離したところからスタートさせたいと思います。
ゲイとしての僕の人生は、社会にとって、どういう意味があるのか
まずですね、
社会にとって意味のある人生って何?って思います。
社会にとって役に立つ人間でいられるかどうかということですね。
子孫が残せない≠生きる意味がない
僕はゲイであることで、
「自分は子孫を残せない」
つまりは、
「社会、もっと言うと人類のために役に立てない」
と思っていました。
これは、今だから言えますが、
完全に間違えています。
野球選手は全員エースピッチャーの4番ホームラン打者じゃなきゃいけないんでしょうか。
野球のスーパースターになることが野球選手としての存在意義なら、
監督を含め、他の打順の選手はみんな野球やってる意味がないってことになります。
そんなことは、ないです。
そりゃ分かります。
子どもを残すことが生きる意味だとするなら、
確かにゲイは生きている意味はないかもしれませんが、
現実は違います。
不妊で悩む夫婦には存在意義がないのでしょうか。
幼少期の事故や怪我で性器を失ってしまった人には生きる意味がありませんか。
そのような境遇の人たちを目の前にして、
「あなたは生きる価値がありません」
とは言えないし、言わないし、思いもしないし、
そもそも事実じゃありません。
自分と同じ境遇の他者に、そういうことを言えないってことは、
自分に対しても言えないということです。
【結論】子孫が残せない≠生きる意味がない
ゲイは子孫が残せない。
だからと言って生きる意味がないわけじゃない。
じゃあゲイって何のためにいるの?
という疑問については、次の記事へ。
コメント
[…] 前回からの続きです。 […]