はいっ、ということでshoboです。
前回からの続きです。
前回の結論は、
「子孫が残せない≠生きる意味がない」
ということでしたね。
まぁそりゃそうですよ。
生物の究極の目的が「繁栄」だったとするなら、
子どもを作れない人たちは全員生きる価値がないって話になります。
しかも「繁栄」が本当に人類の目的なのか、っていうこともありますからね。
人間の繁栄は、地球にとってプラスなのか、マイナスなのか。
なーんて話になるとまた話の方向性がぶっ飛んじゃうので(笑)、
その話はまた今度。
じゃあゲイの生きる意味って何だよ?
生きる意味がないというのは間違い。
それは分かったぞ、と。
それならば僕らゲイの生きる意味ってなんだ?
そうです。
社会にゲイが存在する意味は何なのか。
これはですね、
ハッキリ言います。
愚問です。
社会に存在する意義は、
セクシャリティで決まることではありません。
「個人」です。
ある種の人々だけに対して、生きる価値があるとかないとか一方的に決めつけることって、
これを「差別」と言います。
でも僕は、
自分自身を差別して考えちゃってたんですね。
自分を受け入れるって、難しいことなのかもしれません。
そもそもですね、
社会に存在する意義は、
誰かを救うこと、幸せにすること、幸せになること、誰かを勇気づけること、
命を救うこと、ゴミを片付けること、工場で働くこと、そもそも生きること、
そしてここには書ききれないくらい、たーーーくさんあります。
僕は工場で働いていません。
だから、生きている価値はありませんか?(笑)
んなこたない(笑)。
社会に存在する意義は、
人によっても違うし、環境によっても変わるし、
年齢によっても変化していくものです。
セクシャリティが、
社会に存在する意義のすべてを否定するだけのスイッチには到底なりえません。
僕は以前、
「ゲイが存在する意義」って何だろう?
「男女が存在する意義は、相手とつがいになって子供を作ることだよ」
「じゃあ、子どもが作れないゲイは存在意義がないんだね」
と考えていました。
でもね、
ゲイと男女を同列で考えることそのものが、そもそも前提が違うんです。
この話では「子どもを作れるかどうか」という点が争点です。
ファーストフード店を例に考えてみましょう。
「レジを打つ人が存在する意義」って何だろう?
「ハンバーガーを作る人が存在する意義は、ハンバーガーを作ることだよ」
「じゃあ、レジを打つ人はハンバーガーを作れないから存在意義がないんだね」
この話で者「ファーストフードでハンバーガーを作れるかどうか」が争点になっています。
レジの人は、ハンバーガーが作れないから存在意義がないんでしょうか。
違うでしょー(笑)。
レジの人には違う役割があるんです。
そこに存在意義があるんです。
だから、子どもを作れないゲイが「子どもを作れるかどうか」で存在意義を問うことって、
この問い自体が矛盾なんですね。
かといって、「それじゃあゲイの生きる意味って何なんだよ?」と言われると、
僕にはわかりません。
でも、
ひとりの女性が、子どもをつくためだけに生きているんじゃないのと同じように、
ひとりのゲイが、子どもを作れないだけで生きる意味がないというのは、
まさしく愚かな結論だと思います。
これは差別的な視点に立った思考だと言わざるを得ないと思います。
僕は、この自問自答に長い間、悩みに悩みました。
そして考えれば考えるほど、自分が嫌いになっていきました。
でもね、
中途半端に悩んでたから、苦しかったんだなー。
悩んで悩んで悩みぬいたら、ちゃんとトンネルは抜けました。
こんな風に、もっとちゃんと悩んで、ちゃんと考えれば、
人はちゃんと気づくんだと思います。
若かった俺、
がんばって、悩め!w
【結論】
社会の中での存在意義は、
「男だから」「女だから」「ゲイだから」で決まるものではなく、
自分というひとりのパーソナリティに存在意義というものは宿る
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